「やらせ」とは悪なのか? 「やらせ」だって良いじゃない!

ここ最近、「やらせ」という言葉を頻繁に耳にするようになった。ペニーオークションのステルスマーケティングが登場した頃からだろうか。ニュース番組が事実無根の報道をした批判なら分かるが、バラエティー番組や映画にまで「やらせ」という言葉が飛び交っている。その度に世間は大盛り上がりになり批判が飛び交う。


みんな一体何にそんなに躍起になっているのか私は全く理解が出来ない。「やらせ」だから何だと言うのだ。みんなストレスの捌け口を血眼になって探している。その捌け口が「やらせ」に向けられているだけにすぎない。バラエティー番組や映画には何の罪もない。


お祭りのくじ引きのテキ屋と同じだ。誰も当たりが本当に入っているとは思っていない。それでも「もしかしてもしかするかも!?」と騙されて引くから面白いのだ。いや、騙されたフリをして引くのだ。「ここに出ている当りの商品は客寄せで、当りは入っていないんだよ」と思って引いても面白くない。キャバクラだってそうだ。誰もお姉ちゃんが本気で自分に好意を抱いているとは思っていない。「自分に好意があるかもしれない!?」と騙されたフリをして接するから面白いのだ。


ところが、最近はみんな騙されたフリではなく本当に騙されてしまう。バラエティー番組でジャングルで未知の民族に出会えば、本当に未知の民族に出会ったと騙されてしまう。視聴者が馬鹿になっているのだ。本来、「こんなの嘘だろ! でも騙されてやろう。だってその方が面白いから」とならなければならないのに。


少し古い話しになるが、ペニーオークションの時もそうだ。簡単に言えば自己防衛機能が麻痺しているのだ。最新の家電製品の相場くらい調べれば直ぐに分かる。明らかに安ければ怪しい商品である事は明白だ。「好きな芸能人のブログだから信用していた」と言う人も多いが、好きな芸能人は家族でなければ友達でもない。ただの他人だ。何故他人をそう容易く信用出来るのか、私は理解に苦しむ。「人を見たら泥棒と思え」と、昔の人は良い言葉を残した。容易く物事を信用するなと言う事だ。私はごくごく少人数しか信用していない。友達とファミレスに行った時、トイレに行く場合は絶対に自分のバックも持って行く。友達が財布を盗むかもしれないからだ。友達の武勇伝も話半分で聞いている。


みんなどうしてそんなにストレスを抱えているのだろうか? 何故血眼になって捌け口を探しているのだろうか? そんなに生活に不満があるのだろうか? 怒り以外の方法を見つける術を知らないのだろうか? 変わるべきは世間? それもとも自分? どちらなのだろうか?


おそらく、批判者の思惑通り全てが「やらせ」でなくなったとしても、彼らは面白くも感じないし感動もしないだろう。「やらせ」であろうがなかろうが、楽しめる人は何時でも何処でも楽しんでいるのだから。

このエントリーをはてなブックマークに追加